会津人参 「会津人参」を購入する

HOMEあいづ家オリジナル商品>会津人参

●江戸時代は、長崎から清国へ輸出されていました。

8代将軍吉宗の時代(1767)に、朝鮮から高麗人参の種がもたらされ、幕府は会津藩・信州藩・雲州藩の三藩に栽培を許可しました。
会津藩ではこの高麗人参の栽培を奨励し、会津一円に作付けを行い、やがて高麗人参の大産地となりました。
藩では収穫された高麗人参を、当初(1822)大阪の薬種問屋田辺屋に販売を一任していました。この田辺屋の番頭足立仁十郎は会津を度々訪れるようになり、会津での高麗人参の栽培と販売に大きな力となりました。
文政12年(1829)の頃、足立仁十郎はのれん分けとして長崎に田辺屋の屋号の店舗を構え、会津藩は人参を藩の専売として人参奉行を設け、長崎会所を通して清国への輸出が始まりました。
その後足立仁十郎は会津藩人参売捌方用足・足立監物として会津藩召抱えとなり、幕末の会津藩の高麗人参売り捌きと資金調達に多大な貢献をしました。しかし明治元年、会津藩加担を理由に、維新政府により長崎東浜町の田辺屋家屋家財をすべて没収されました。こんなところにも戊辰戦争の悲劇がありました。

●江戸時代、会津人参(高麗人参)は会津藩の独占取扱品でした。

収穫された会津人参/黒いビニールハウスに覆われた人参畑会津は江戸時代から薬用人参(高麗人参)の産地です。
薬用人参は五年もの六年ものと言われるように、長い年月を掛けて栽培され、その間に大地の恵みを蓄えます。
薬用人参(高麗人参)は会津漆器、絵ろうそくとともに江戸時代から藩奨励の貴重な生産物でした。
江戸時代は親が病気になると娘が身売りし、そのお金で人参を買った、と言われる位高額で貴重なものでした。
現在では会津人参として、大半が会津外へ出荷されていますが、地元では薬膳料理として健康維持のため食べられています。(薬膳料理の食べられるお店を紹介してあります)

●会津人参(高麗人参)を三十年以上愛用してきました。

私は子供の頃から体力が無くたびたび学校を休んでいました。結婚してからも、仕事が忙しいと会社を休み勝ちでした。妻の友人から「会津人参を試してみたら」と勧められ、毎日愛用するようにしてみたら、仕事疲れで会社を休む事もなくなり、見違えるように健康になりました。
以来三十数年間会津人参(高麗人参)を愛用し続けて来ました。

●会津人参(高麗人参)を愛用体験したからお勧めします。

高麗人参の価値は良く知られていますが、会津が産地であることはあまり知られていません。また実際に愛用体験している方は少ないようです。
若い頃から私の健康維持に欠かせなかった会津人参を紹介し、多くの方々の健康づくりのお役に立てれば幸いです。 
医食同源・会津人参で健康維持。会津人参を毎日愛用して、健康づくりに役立てて頂くことを願っています。

鰍いづ家  店主敬白


医は食にあり 医食同源

会津人参で健康に過ごす毎日

会津人参関連商品

これらの関連商品につきましても、オンラインショップにてご購入いただけます。「栃の木の蜜」は会津人参蜂蜜ドリンクとしてお召し上がりいただくと美味しくいただけます。

会津人参関連商品

 

会津人参

ページの一番上に戻る